コトノハのシズク Blog(仮)

肉の妖精のライフログ。

今そこにあるかも知れない断絶

ご注意。本日の日記は人の生き死にのお話しがメインですので、その手のものが苦手な方はご遠慮くださいませ。こういう場の日記で読みたい内容じゃ無いやっ!って方もですね。や、湿っぽく語る気はないんですが(むしろ感じた事実を書き記し残したいだけなんですが)、どうしても読んでる人はそう感じちゃいますもんね。なお、ワシに向けてのお悔やみの言葉とかはいらないんですが、故人に向けてはワシの制するところではないので。。。















昨夜は中学の友人のお通夜に行ってきました。


原因は交通事故。GWの帰省ラッシュの中の事故と言うことでニュースにもなっていました。下の記事の大工さんの方が同級生です。
http://sankei.jp.msn.com/affairs/disaster/090506/dst0905060921001-n1.htm


ワシが聞いたのは事故の翌日、ちょうどモンハンコンサートの直前に共通の友人から電話がかかってきました。が、正直、驚きはしましたが悲しみを感じるところは少なく、それは唐突だったからというのもあるでしょうが、やはり間に横たわる歳月が大きかった気がします。


彼と最後に会ったのは、中学を卒業後は1回くらい、少なくとも10年以上は前のことです。中学時代はクラスメート、友人としていろいろと話していた記憶はあるのですが、それすらも靄がかったかのように記憶巣に霞んでいます。


だから、お通夜に行って焼香していても、なんか悲しみそのものが不安定で、自分自身が場違いな場に紛れ込んでしまったような感覚すらありました。なにせ、遺影を見ても自分の思い出と直結しないんだもんなぁ……それは、ワシの脳味噌の問題かも知れませんが、さすがに自分が薄情な気がしました。


ただ、やはりというか、いつも申しているように、葬式は、亡くなった人との離別の感よりも、亡くなった人を見て悲しむ人を見るのが悲しくて、事故では軽傷で済んだ彼のご両親の姿には居たたまれない気持ちが強まります。


ふわふわとした悲しみを捕まえきれない感覚に陥っているのは確かなのですが、それとは別に、確信的な感覚として、やはり同じ年、それも一時は多くの時間をともにした同級生の死というものは、考えさせられるものがあります。


ワシは、中学の同級生で友人を二人亡くしています。一学年500人近くいたので(もちろん、その全ての人と友誼を持っていたわけではないですが)、もしかしたら連絡の来ていないところで他にも亡くしているのかもしれません。また、同年代の友人ってことなら、さらに数本、卒塔婆の数は増えることになります。


報道なんかでは、同年代やさらに若い方の死をよく目にしますしそれはそれでいたたまれない気になるのですが、当然のごとく、直接親交のあった同年代のそれはさらに重い意味を持ちます。これは、人の死が(少なくとも主観的には)平等ではない証左のひとつではありますが、それはまた別の機会に。


まだ世間的には若造も良い年齢でありつつ、「いつ死んでも良いように、毎日を一生懸命悔いなく生きるんだ」とうそぶいてはいますが、現実、もし今目の前に死が迫ってきたら、悔いが残ると思います。それは、成したいことを成し得ていない自覚。そして、迫って来ることさえ分からずに死に飲み込まれたら悔いを感じることすらできない、そのことに対する恐怖もあります。


同年代の友人、知人の死に直面すると、常にそのことを考えさせられます。すなわち、平均寿命で言えばまだまだ先の出来事と勝手に想定して、それを担保に安心しきって毎日を過ごしている30代前半の若造が、その毎日が突然途切れる可能性を目の前に突き付けられる、というところから発する思考。


それを少し、自分にあてはめて掘り下げてみたいと思うのです。


                    <(まさかの)つづく>





※このような話題は非常にセンシティブで、また人の数だけ事例と思いがあり、言葉足らず、説明不足な部分も多いと思いますが、逆に書ききれるものでもありませんので、そこはご容赦ください。