コトノハのシズク Blog(仮)

肉の妖精のライフログ。

パブリック・賀正

あけまして以下略(失礼にも程がある)。


いやー、今年の今日は例年通りに、例年以上にアレな感じで、なんかまぁ愚痴っぽくなりますが、大晦日の夜から会社に行って年越し生放送の監視をしていたらちょうど年越しの時間にシステムがトラブってあわあわしたり、年が明けたらまたすぐに「鷹の爪」な生放送があったり、ようやく落ち着いて食べた年越し(済み)ソバが「ペヤング超大盛やきそば」だったり(多分、間違ってない)、会社の窓から終夜輝く東京タワーと満月で月蝕の月を眺めたり、その後朝の5時に日本テレビに入って間寛平さんアースマラソンの生放送でトルコからのカウントダウンを衛星中継でしてみたり、無事終わったと思って会社に戻って荷物置いて帰ろうとしたらそのままデスクで寝てしまって起きたら昼過ぎだったり。


ひと言で言えば、ぐったりな感じ。


まぁそんな個人的な忙しさ自慢(痛々しい)はどうでも良いんですが、なんか、驚きを抱えつつ気付いたことが(っていうと大袈裟ですが)ひとつ。


そういえば今年、年賀メールほとんど来てなくね?


いや自分も出してないですし、メールが貰えないことが不満なワケでもないんですけど、単なる事象として、昨年までに比べて圧倒的にいわゆる「あけおめ」メールが来ていない。テメーの交友関係が寂しいからだ!って言われそうですが、いやいやこう見えて友人は多いですし(友作、って名前は伊達じゃない!)、実際このことをtwitterなどで呟いたら、同感に感じている人は何人かいまして。


で、その代わりってんじゃないですけど、圧倒的に増えた気がするのがtwittermixiボイス含む)での、たくさんの友人知人の新年の挨拶。


もちろん、ここ数年の傾向として、SNSやブログでの新年の挨拶もあって、それにさらに加えて今年はtwitter的なものでの挨拶が増えていて、その分年賀メールが減ったのかな、と感じたのです。


昨日の日記でカテゴリ云々言っておいてなんですけど、あえてこの言い方をするなら、新年の挨拶の形は、ゼロ年代の終焉とともにパラダイムシフトを起こしてしまったのかもしれないな、と。


従来の新年の挨拶と言えば、年賀状、年賀メールでのやりとり、そうまさに「やりとり」をすることが形式でした。でも、SNS、ブログ、そして昨年twitter(的なもの)がブレイクすることで、「言いっぱなし」の挨拶形式となったのかもしれません。レス、リプライはあれど、基本自分が挨拶を発して、友達の挨拶を確認したら、それで満足をしてしまう。


そう、新年の挨拶は、パーソナルなものからパブリックなものに変化し、パブリックな(に近い)場で「表明」しておけば良い、言いっぱなしで良い空気をまとったものになったのかもしれない。


……もちろん、これには個人差もあるでしょうし、年代差もあると思います。ワシより若い世代であればフツーに年賀メールのやりとりは変わらずにやっていそうな気がしますし、上の世代であれば年賀状を従来通りやっている気もします。


ワシ自身(と多くの友人知人も)が、年賀状文化と年賀メール文化と年賀日記文化の、世代的及び友人知人関係の傾向的な、なんとなく狭間のポジションにいるのが、この現象の原因のひとつなのだろう、というほんわかした思いは、あります。


なんか結局世代論に帰結してしまうようでその点は不満ですが、それだけでもない気がしていて、新年早々、面白い思考のフックを発見した気がして、ぐったりしつつも楽しい新年だったりするのです。