コトノハのシズク Blog(仮)

肉の妖精のライフログ。

3.11+9

先の日記から一週間以上が経ちまして。これでも2年位前までは連続1100日以上mixi日記と書いていたはずなんですが、ここ最近の更新頻度を見ると、週に1〜2回程度。まぁ別に、書く頻度に重きをおいていた時期は過ぎてるし無理に書くものでもないですが、自分でもあんまり書いていないのはちょっと寂しい。その分のアウトプットがtwitterという気は無く、というのもアウトプットの形式が違うからですが、やはり少なからずtwitterが更新頻度低下に影響を与えている気もしていて。


まぁ、そんなどうでも良いことというか主題から遠いマクラから始まりましたが。


震災からの一週間は、長いような短いような、時間感覚の不思議な日々を過ごしました。被災者の方の千辛万苦に比べるべくもありませんが、ワシはワシで慌ただしい日々ではありましたので、この9日間を日記的にそれをまとめてみようかな、と。まとまらないと思うけど。


ひとつ前の日記でも書きましたが、震災の瞬間は秋葉原にいて、ビル群に囲まれたロータリーで生きた心地のしない数十秒を過ごしました。このままビルが倒れてくるんじゃないか、信号機が折れるんじゃないか、それほどの恐怖。最初の地震が収まった後も、数十分、足の震えが止まりませんでした。


二時間ほど待機して、40分ほど歩いて会社に戻ったら、それはそれでそこそこの混乱。そんな中、ワシの業務である生放送で、NHKさんやフジテレビさん災害特番をサイマル(同時)放送できることとなり、その体制を整えたり機材を用意したりと急にドタバタし始めました。


とはいえ、目的がひとつ出来ると人の動きは良いもので、それまで気持ち的に茫然自失としていたワシや、恐らくウチのチームの面々も、やることが出来たことで気持ちの引き締めも出来たのではないでしょうか。


テレビのサイマル放送も、地震そのものも、状況の変化がどうなるか分からないので、そのままワシは(自称)特番対応司令室となった会社の会議室の一室で、土曜日の深夜まで30時間以上詰めてました。まぁ、途中で2〜3回寝落ちしてしまいましたが、この時はやりきることに一生懸命になっていたのでしょうね。


そんな仕事をしつつ、微妙に家人で連絡の付かない人がいたり、仙台や岩手に所縁のある友人の無事が気になったりもしていました。家人は11日中に、友人たちも12日にはメールやtwitterFacebookで無事が確認できて人心地。余談ですし多くの人が言っていますが、今回は震災におけるtwitterの強さと怖さを知りました。ともあれ、家族共通アカウントってのを持って、何かあったらそこで安否確認、というアイデアは良いかもしれません。


さて、12日土曜日の終電後に帰ったワシ。思えば自宅のある千葉県北西部は震度6弱で都内よりも激しい揺れ。ワシが暮らして(生まれて)34年ちょっとの中でも最大の震度です。家人からもメールで「友作の部屋、寄せ鍋みたいよ」(母)「おまの部屋は……」(兄)と心強いメッセージをもらっていたのである程度の覚悟はしていましたが……。



カオス


いやまぁ、元々布団の周りにものを積み上げている部屋ではあったんですが、それらが崩れて組んずほぐれつ、寄せ鍋というよりは闇鍋じゃないかと思わんばかりの光景です。思わず、廊下に椅子を出して30分くらい現実逃避をしました。が、まぁ放っておいて片付くわけでも寝床が出来るわけでもないので、応急処置的にまた崩れていたものを積み上げる処置。


しかし、普段は上の写真の真ん中で横になっているワケですが、そう考えると寝ている時に地震がこなくてまだ良かったな、と。そしてやはりよく見てみれば、テレビやPCモニターは結構ずれて、本棚からも本が立ち幅跳びをしていたりと、積み上げだけじゃない被害があれやこれや。ともあれこの日は寝床だけ作って就寝。40時間ぶりくらいの布団。


で、翌日から一週間ほどは家に帰れませんで。すなわち片付けもしていなかったわけで。


翌13日日曜日からは各所で行われる会見も生中継しようということになってそれも24時間体制での対応を考え、人員を考えます。その日も遅くなったので帰るのは諦めたのですが、さらに14日月曜日からは、電力供給の危機が叫ばれてのいわゆる「計画停電」が叫ばれ、ワシの住んでいる船橋市は下手したら日に2度くらいは停電で、そうすると最寄りの田舎電車も走らず、会社に来られるかも怪しい。


ということで、会社の近くにホテルを取って、ワシもそうですがやはり家の遠い人や遅くまでシフトで帰れなかった人、あるいは深夜担当の人が朝シャワーを浴びられるように……などで活用することに。実質、一室はワシが占拠してしまいましたが。


14日からの週は、計画停電のこともあって会社的には「自宅待機」なども発令し、最終的には木金が「休業日」となったのですが、それ故、どこの部署も出て来ている人は半分くらいだったりもしたのですが、ウチの生放送チームとニコニコニュースのチームだけは完全フル稼働。新聞社へTV局の報道室ってこんな感じなのかな、と思えるくらいには、駆け回ったり怒号が飛んだりしていました。


TV番組のサイマルの他、東北や茨城の被災地状況を知らせるラジオ局のサイマル放送、東電や経産省(原子力保安院)や首相官邸からの中継に、さらにはニコニコ独自の特番もやって、本当にドタバタ。言い方は悪いですが、妙なテンションになっていた人もいるし、ワシも少しその影響を受けていたかもしれません。とはいえワシは基本的に(自称)司令室に籠もってますので、状況把握と冷静な判断などを心がけます。


ドタバタながらも週の後半からは落ち着いてきた感。シフトも組んだので夜は軽く飲みに行く余裕なんかも出てきていましたが、やはり日々、震災の情報のみに触れていたせいでしょうか、どうしようもない疲労感に襲われます。体はまだまだ動けるんだけど、心が捻挫してしまったような。


その辺を含めて、twitterはずっとtweetしてたし、確認していた気がします。それはそれで情報過多だったりするのですが、それで落ち着いた面があったのも確かで。twilogの11日から19日あたりで、いろいろ悶えていたりします。> http://twilog.org/tomosaku/


そんな中、翌週(今日からすれば今週)開催される担当案件、沖縄国際映画祭( http://www.oimf.jp/ )が日一日と近付いてきて、震災はありましたが笑顔と心の繋がりを届けて被災地を応援する、という主催者の意向で中止になることもなく、そっちの準備も並行して進めることに。まぁ確かにワシ個人としても、今必要なのは笑顔でありエンターテイメントだと思っているので、その意味で手を抜く気ももちろん無く。


結局次に家に帰ったのは、19日土曜日。週の後半は、落ち着きつつある(業務が回っている、という意味で)震災情報と、うごめき出した映画祭の業務が相交わり、中々に精神的安定を保つのに努力を要したものですが、そんなところに恩人の訃報も入ったりして、しかも葬祭が出張中になったりして、色々気が気でないまま新しい週に入りました。


そして、明日……今日からは、一週間ほどの沖縄。これはこれで刻一刻状況が変わっていて、中々にキツキツのスケジュールになりそうです。沖縄出張、というと10人中20人くらいから「良いな−、楽しそうだなー」といわれますが、そんなことも無く、例年(今年で3回目)このイベントで行っているワシも、例年全然余裕が無いのです。


と、気の赴くままに書き連ねてみれば、なんかもうただのせわしさ表明のようでまたなんともかっこ悪い上、テキストがまとまる気もしませんが、もう推敲するのもアレなのでこれであげちゃう。



なんか、今回ニコニコがテレビを同時放送したことについて、言うまでも無いですがこれはものすごく画期的でドラスティックな出来事でした。それは、会社同士の関係としてもメディアの構成としてもそうなのですが、でもワシが個人的にもっとも大事だったな、と思ったのは、テレビは見られないけどネットは見られる人に、テレビの強大な取材力を持って見えた事実を届けることが出来た、ということ。


そして、これはテレビやラジオのサイマルに限りませんが、きっと、ワシらの発信している情報を必要としてくれている人はいる、その気持ちが、自分を鼓舞し続けたのは確かです。今後取り組むべき多くの重要な課題も見え、ニコニコがメディアとしてまたひとつ成長する、その現象を目の当たりにし、その現場にいられたことは、個人レベルの話で恐縮ですが(これは日記だから断るのも妙ですが)、ワシにとって大きな財産となりました。


まだまだ、震災に対して我々が取り組むべきことは多いですし、そもそも話を原点に戻せば、被災地の方々の暮らしを取り戻すまで、あるいは電気の供給が安定するまで、時間はかなりかかるでしょう。でもこの社会の中で、自分が、自分たちが果たせる役割を、きちんと考えて実行していきたいものです。


なお、ニコニコでも震災地への義援金を募集しています。このチャネルから寄付をしても良い、と思われた方は、是非に。
http://www.nicovideo.jp/bokin
もうすぐ二億円!



結びに、昨日の昼くらいにしたtweetを加筆して貼っておきます。


現在被災地とされているところ、現地が落ち着いたら、旅の好きなワシはそこに旅をしよう。気仙沼でも仙台でも松島でもひたちなかでも良い、旅をしよう。そして美味しいものを食べて温泉に浸かって観光をしてお金を使おう。


阪神大震災の後、その年の夏に神戸を旅したワシは、まだ復興途上にあった街を見て、自分の心の至らなさが嫌になって半日で逃げ出してしまいました。でもその数日後、テレビで「元気を取り戻しつつある神戸に来てください!」と言っていた神戸の人を見て、すごく救われました。


復興の邪魔はしない。でも、手伝いはしたい。それが、義援金という形かもしれないし、旅という形かもしれない。だからワシは、昨年回った女川、石巻、塩釜、仙台、行ってみたかった気仙沼などなど、素晴らしい東北の各所を旅することを、そっと誓おうと思います。