コトノハのシズク Blog(仮)

肉の妖精のライフログ。

生詩の礫

「礫」(つぶて)を「磔」(はりつけ)と読み間違えていたこともありました……。


それはさておき。


今日ニコ生で、東浩紀さんが詩人の和合亮一さんを迎えての番組をやりまして。


ニコ生思想地図「福島から考える言葉の力 和合亮一×東浩紀
http://live.nicovideo.jp/watch/lv50913197


和合さんや「詩の礫」についてはワシも少し前にテキストにしたためましたが、氏は東日本大震災の被災者で、福島県在住の詩人。被災者である視点から、twitterで幾つかの詩を投稿しています。


ことばのちから(詩の礫10より)
http://d.hatena.ne.jp/tomosaku/20110417/1303052301


(余談ですが、「詩の礫」で検索するとYahoo!でもGoogleでもワシのブログでのこの日記が上位にランクされていて、ただ紹介しているだけなのでなんか申し訳ない限りです)


今回の番組は「いま、言葉は力を持つのか?」「災害のなかで詩の言葉、文学の言葉はどのような役割を果たせると思うか」を切り口にしたお二人の対談。まさに、ワシの感じていた「ことばのちから」とは何なのかを考えさせられました。


奇しくも数日前、「詩の礫」の決着がtwitterで投稿されたばかり。togetterでまとめられていますが、改めて、感銘を受けたもの。最後の一言は、その表現だけではけして奇抜なものでは無いですが、長い叙情詩の後に見ると、感慨も深くなります。


詩の礫 決着
http://togetter.com/li/140567


今日の番組で、氏は生で「詩の礫」の朗読をなさいました。文字で表されるのとはまた違う、音になった時の「ちから」。詩を分からないワシですらそれを感じられたのですから、その凄さは計り知れません。