コトノハのシズク Blog(仮)

肉の妖精のライフログ。

三つ子の繋がり、百まで

通う神社の話題が続いて恐縮ですが。

その神社には「託児所」と呼ばれる部屋があります。子供を預ける場所、というよりは、子供さんと親御さんが一緒にいられる場所(そこにいると、神社内を結ぶテレビで説法的なお話しとかが聞ける)。子供さんの方は、0歳から小学校の真ん中くらいまでの年齢まで様々ですし、自然、年が上の子が下の子の面倒をみたり、あるいは年齢関係なく一緒に遊んだり、親御さんも一緒にはいますが、そこには子供たちのコミュニティが出来ています。

正月三が日中、神社のお手伝いをしながらその部屋の前を通ったワシ。フッと部屋の中を覗いてみれば……何この見知った顔ばかりの親御さん、というか特にお母さんたち。

そう、だいたいその年代の子供たちの親御さんはワシの前後の年代が多いんですね。20代後半から40くらいまでの間。

ほとんどの親御さんは、幼馴染みと言って差し支えないでしょう。ワシは、親が通っていたこともあって、自分も産まれた時から自然とこの場所にいて、自分が小さい時はやはり託児所にいて(その頃は、まだ改築前の古い建物)。そう、30年くらい前は託児所で遊んでた仲間が、いまや親か!(ワシは違うけど)。ってことにみんなで気付いて、大笑いになったのでした。

ワシはたまに神社のことを聞かれると、ボーイスカウトに喩えることがあります。子供の頃から見知っていて、集団生活を過ごして、子供心に嫌なこともたくさんあるけど、大人になってみればそれを遙かに上回るほどの学びがあったことに気付く。ワシはボーイスカウトに所属したことは無いですが、ワシの持っているイメージでは近しいのです。

でもやっぱり、いや知らないで言うこっちゃ無いですが、ボーイスカウトとは違うんだろうな、とも思うのです。

今こうして男女の別なく、ここに来れば会える仲間がいる(いる時いない時はそれぞれあるし、もう会えなくなった人もいますが)。その繋がりは恐らく、ここに来る限り死ぬまで途切れない。自分より遙か年輩の方々を見ていても、そう思います。

別に軸になるものはなんだって良いと思うんです。ワシはそれがたまたま神道であり、自分の気持ち的に特に思春期にはいろいろ反発もありましたが、今こうして、自分の信仰は神道ですと胸を張って言える。まぁ、ワシが神主なら神など信じられない、と言われるくらいには日常生活にその影響は無いですが、思想的にははっきりそう言える。

そして仲間達も、別に信仰にのみ偏ることも無く、それぞれの生活をしながら、それぞれの生活の中で同じ軸を共有し、同じ場所を共有し、同じ思い出を共有している。これって、とんでもない価値だよな、というのは前々から思っていましたが、この正月、その託児所での大笑いのあと、ものすごく身に染みて実感しました。

 

ワシは、拠り所にしているものが三つあります。それを人に言うことは極力控えているのですが(それは自分の弱みにもなるので)、話の流れ的に書いてしまうと、そのうちの一つは通う神社というこの「場」そのものです。三つ子からの仲間達は、百になっても仲間だと、心から思えるのです。