コトノハのシズク Blog(仮)

肉の妖精のライフログ。

苦しむ心、クリアな脳、紡ぐ言葉

やっぱり人は苦しんだ方が良い。少なくとも、文芸(文学)を志す人間は苦しんだ方が良い。

その理由が仕事であろうと私事であろうとどちらでも良いんですが、心が苦しむほどに自己の意識は内省し、その結果、自分のふんわりとした心を定義づけようとして、言葉を紡ぎ出します。これは、「得体の知れない恐怖感」を「幽霊」と名付けて、逆説的に安心を得ることに似ているかと。

昔、ワシがどんなにせわしい時でも、毎日ある程度のテキストを書いてネットにアップしていたのは、その裏返しだった気がします。この間、ちょっと折があってmixi日記の件数を追ってみたのですが、3月25日時点の、登録から10年半で2542件。1100日ちょっと連続更新していたころは仕事も管理職になったりでいろいろ多岐に渡っていた時でもありますし、やはり集中しているのは、せわしかった時な感があります。逆に、ここ数年はそういうのを書けていないってのは、実は大枠では人生で楽をしている時期なのかもしれません。

だから、ちぃと感情を表出しすることがあり、ちょこっと心が苦しんでいるここ最近、陳腐かもしれないし定番のフレーズかもしれないけど、少なくとも自分からの率直な言葉が、なんかすごいたくさん溢れ出ているのです。そして、こんな時は物語を作りたくなる≒小説を書きたくなります。この、自分から溢れる感覚を言葉として留めたくなるんでしょうねぇ。余談ですが、そう考えるとやっぱり「小説家になりたい」ってのは変で、書きたいものがある結果、小説家になるんだよな、と思うところです。

さて。心は捻挫したかのように苦しいのに、脳はクリアになって、言葉を生み出してくる。この快感を知ってしまうと、文章書きは文章を書くことから逃れられない気がします。それはそこに商業が絡むかどうか、は問題では無く。

思い出せば、また根っこは違えど、大学の卒論を書き上げた時もそうだった気がします。提出日の3日前まで白紙だった卒論、このままの卒業不可も覚悟しましたが、すんごい苦しみの中ふいに「降りてきて」、1日目66枚、2日目22枚を書いて、友人にも手伝ってもらってギリギリに提出した体験。あれは、たぶん自分の人生で最も天才的に文章が書けた日だった気がします(評価も良かった)。あの感覚よ、もう一度。

でありながら最近はそんな時に、ひとさまから教わった田村隆一氏の『帰途』の冒頭、「言葉なんかおぼえるんじゃなかった」という一節を思い出します。そこで表されている言葉の限界は、言葉を知っている者ほど、自覚させられる未熟さを思い知らされるのではないかと。

なんか、こんなことを書いていること自体が、以前友人たちと飲んでいる時に命名した「太宰治症候群」っていうヤツの一環かもしれません。内省をこうして吐露していることまで含めての、偽悪趣味。でもま、これこそ文章書きの性なのだから、仕方ない。

……とまぁ、昨夜の「ひとさまの恋バナに茶々を入れていたら、諸々自分の中でクリアになってくる感覚。」ってのをまとめて、テキスト化してみたのがこれ。これの延長に、さらにその前日に書いた「なんか今、恋と文学の関係性について、ひとつ悟った気がする。」ってのが繋がっていくんですけども、これはまだテキストにまとめるには早計なので、気になる酔狂な方は、飲んだ時にでも。