コトノハのシズク Blog(仮)

肉の妖精のライフログ。

記憶と記録〜テッド・チャン「息吹」より

テッド・チャン「息吹」収録の「偽りのない事実、偽りのない気持ち」を読んで動揺というか激しく心揺さぶられたので衝動的に書き記してみる。
※書いてから読み返したら、飛躍している部分もあるけど、衝動ってことでご容赦。

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本作、自分の生活を生まれた頃から自分視点の映像で録画し続ける「生活記録(ライフログ)」が普通になりつつあり、さらにその参照が容易になっている時代が舞台。揉め事や記憶違いの解決が映像記録でされることが増え、人間の記憶が外部記録装置に取って代わられるのでは、と危惧するオールド世代の主人公が、それによる益と害を体感して考えていく物語。

 

彼は、記録されていない自分の記憶を大事にしている。例えば幼き日の祖母と遊んだ暖かい記憶、だがその時の祖母の表情が記録に残っていて実は呆れた疲れ顔だったらやりきれない、とかそういうことだ。

 

これは、ワシが最近特によく考えている(昔からも考えているけど)、『人は物語の中に人生を生きている』ことを表象化しているな、と思う。

 

人は元々「忘れる」機能を持つことで、様々な困難や苦悩を乗り越えてきたし、逆にいえば自分の都合のいいように人生を改変してきている。自分の人生を物語化することができる。

 

ここに現在、SNSというツールが出てきた。それは「記憶の時代」と「記録の時代」の過渡期にあると考えているのだけれども、不完全さも持ち合わせていて、「都合のいい記憶」のみならず「都合のいい記録」だけが残ることにもなる。

 

例えば。ワシはSNSライフログとして使っていると言ってるけど、実際はほとんど自分の感情、特にネガティブな感情は書いてない。これはライフログとして不完全極まりないけど、楽しいことのみで過去を彩ることで、楽しく生きていると自分を錯覚させることはできる。

 

もちろん、自分のみが参照できるところに書いていること(いわゆる日記)には負のアレコレも書いてあるし、記憶から全ての「嫌なこと」が欠落するわけではないけど、今の時代って、SNSを介することで、より自分を物語化できるよね、と常々考えている。自分自身をも対象にしたセルフブランディングとも言える。

 

その点で、実は現代は記憶だけの時代よりも後退しているのではないか、と思うこともある。後退というのは相応しくないかもしれないが、より人生の物語化を進めているのかもな、とは思う。この良し悪しの結論は出てないし出ないだろうけど、現代のひとつの状態ではあるなと認識している。

 

そこに、完全記録という状態が出てきたらどうなるのだろうか。物語という毛布を剥がれた人の記憶ってどうなるのだろうか。それが当たり前になっている人は人生をどのように捉えるのだろうか。

 

今のワシにその答えはないし、本作もその答えを提示してはいないが、思考に深い溝を作ってくれたのでありがたし。