コトノハのシズク Blog(仮)

肉の妖精のライフログ。

ブライアン

今日は、ちょっとした思い出話。twitterでのやりとりで、ある人と「ブライ」という同人誌で繋がっていることが分かり、しかもそれを東浩紀さんに晒された(w)りしたので、ちょっと掘り下げてみようかと。タイトルの「ブライアン」とは、ブライの関係者に対する呼び名として、そのやり取りの際に初めて使いました。きっと誰も使ってません。


で、この本のアレコレについては(狭い世界の中ですが)いろんな人がいろんな視点で把握しているのは知っておりますので、あくまでワシ視点(若干脚色含む←何)ってことで、関係者の皆さまは、ひとつ。あ、あと当時の本がどこいったか分からないので、かなりの曖昧記憶の中で書いてますから、記憶違いもありそうです。良いのか、それ?(もし明らかな事実誤認にお気づきの方がいればご指摘の程)



「ブライ」ってのは、文芸系同人誌の名前で、ワシの母校、日大芸術学部文芸学科を母体にした文芸サークルの名前でもあります……もしかしたら、今はそこからさらに広がっているかもしれませんが。「ブライ」あるいは「burai」という誌名と「文芸学科」とあわせて検索してみたら、最近では文学フリマにも出ていたり、また文芸同人誌としては文芸学科でも(日芸でも?)最古参の本になっているようです。


でワシは、一応その創刊者であり、初代編集長でもありました。


日芸に入ったばかりの大学一年時、例によってお約束の「モラトリアム」にかかったワシ。それなりに学校や友達も楽しいけれども、なーんも創ってないしやってないなぁ、という感覚にとらわれる日々。サークルとかも特定のところに入らず、てのも貧乏だったのでバイトを結構多めにしていたこともあって、早くも「退学」とかを考えないでもない時期でした。


文芸学科では、一年次からゼミがあって、そこでは「ゼミ雑誌」という本を年に一冊作るのが慣例でして、ワシは早速編集担当に任命されました。。当時(1996年)はやっと「DTP」って概念が広まり始めようかという頃。そのゼミ雑誌の編集はDTPではやりませんでしたが、編集作業、そしてDTP作業ってものの面白さを感じ始め、「創作」のみならぬ「ものつくり」の楽しさを覚え始めます。


そんな折、確か後期が始まった頃でしょうか、知り合った同じ学科の同級生Iと、飲みの席かなんだったか忘れましたが話しが盛り上がり、『今の文芸学科にはない本を作ろう!』となったのが、確かキッカケ。当時から文芸学科には、4〜5冊程度サークルが出している同人誌がありましたが、文学やカルチャーに寄ったものが多かったのです。


で、ワシらが目指したのが「総合文芸誌」。文芸が主体ではあるんですが、せっかく日芸にいていろんな学科があるんだから、写真や絵画、あるいは漫画、そういったものが全部詰まった本を作れば面白いんじゃね?という発想でした。ゆくゆくは映像や音楽も付けて……なんて、当時のメディアとしてはCDくらいでしたが、考えていました。


なんだかんだと友人のツテを頼って寄稿者を募集。文芸作品が何本かと、漫画、そして写真などが集まりました。編集人はワシ、発行人はI、という形だったかな。で、1997年の新年だか春の新学期を迎えるだかの頃に、創刊号を上梓することができました。


誌名の由来は、そのまんまですが「無頼」。自分達なりの無頼者を気取っておりまして、今にして思えば厨っぽさがあるのも確かですが、今でもこの誌名は好きです。


売れ行きは、これは完全に覚えていません。印刷費などは一部執筆者と編集陣による持ち出しで、全部売れてもペイできるものでは無く、それでも売れた多少の金は、たぶん、飲み代に消えたのでしょう。ワシのバイト代も結構消えました。が「創った」ことに満足した我々は、さらに次号に取りかかりつつ、後輩が入ってきた4月には、新入生の勧誘なんかも始めます。


が、この二号を創るかの辺りで、内容は忘れましたが、ワシとIとの「方針の違い」的なものが露わになってきます。ミュージシャンで言えば「音楽性の違い」。まぁそれだけでも無かった気がしますが、その結果、ワシは二号まで製作・編集に関わった後、サークルを抜けます。


ちょうどその頃、日芸の学園祭「芸術際」の、文芸学科の実行委員長をやらないか、という誘いがあって、この先はそっちの方向、イベンター的な方に「ものつくり欲」をシフトしていきます。ただ、本作りも辞められず、ゼミ雑誌は二年になっても編集を担当し、また一発ネタ的な同人誌・フリーペーパーも幾つか発行します。


ブライはワシが抜けた後、入ったばかりの一年生が、無責任な先輩の尻ぬぐいに編集をやってくれて存続。その後、今日までの13年間続いているのです。数年前に芸術際に遊びに行った時に、もちろんワシのことなんか知らない後輩から新しい号を買いましたが、文芸作品の他に、特集記事や取材記事なんかもあって、ある意味、創刊の精神は受け継がれているんだなぁ、と嬉しくなりました。


余談かもですが、初代の発行人だったIこと石井光太氏は、その後世界を旅したルポルタージュを上梓し、卒業後は文筆家として活動しているようです。また、創刊号の表紙と中の漫画を書いてくれた筧昌也氏は、映像・映画監督として活動中。別にワシが何をしたわけでも無いですが、少しでも一緒に活動した人が創作者として動いているのは、ワシにとっては刺激的。



まぁそんな懐かしいことを思い出し、そして13年を跨いでそこを軸にtwitterでの交流がささやかにでもあった、というのは、驚きでもあり、嬉しくもありました。これを以てソーシャルメディア云々とか言う気はありませんが、自分がやっていたことは、というか人生においては何一つとして、無駄なことはないし社会と繋がらないことはないのだな、と、より大上段から感じてみました。