現代美術と文学性
国立新美術館「話しているのは誰? 現代美術に潜む文学」往訪。狙ったわけじゃないのに、行ったのが文化の日で入場無料だった!
展示の解説にこんなことが書かれている。
【古代ローマの詩人ホラティウスが『詩論』で記した「詩は絵のごとく」という一節は、詩と絵画という芸術ジャンルに密接な関係を認める拠り所として頻繁に援用されてきました。以来、詩や文学のような言語芸術と、絵画や彫刻のような視覚芸術との類縁関係を巡る議論は、さまざまな時代と場所で繰り広げられてきました。】
ちょっとずれるかもしれないけど。ワシは自分が言葉と文章の人だと思っているので、絵や音楽などを見聞きしても、それを言葉にするとどうなるか、というのをいつも気にしている。本当は映像にした方が再解釈や人への伝達がしやすいだろうな、というものも、出来れば言葉に変換したい。
なので、この展示のテーマ自体がワシの生き様に近い(大袈裟)もんだなぁ、と見てみたが、ふむふむなるほど、やはり難しいもんだ。
文学性、ワシはそれを物語性とも言い換えたいが、伝わる作品と(ワシには)難しい作品とあり、そのこと自体がまた思考を深くさせるので、鑑賞できたのは良かった。
6人の現代作家が参加していたのだが、その中でお気に入りを紹介していくと。
北島敬三氏。今回の作品の中で唯一写真のみの展示だったが、その写真には、社会主義が消えゆこうとしている時期の東欧やソ連崩壊直後の旧ソ連各国の人々の顔だったり、日本の限界集落や被災地で廃墟などが撮られている。すなわち、撮影の時点でその背景に膨大なコンテクストがあるわけだ。
撮影年、撮影場所が提示されるだけで、受け手は勝手に物語を妄想していく。廃墟や衰退していく社会に、悲哀なり滅びの美しさを重ね合わせる。その良し悪しはさておき、そうさせる撮り方をしているのは面白く、個人的には今回の出展作の中で一番文学性を感じたかも。
小林エリカ氏は写真、映像、小説、造形と盛り沢山の表現手法で、テーマもオリンピック、聖火リレー、第二次世界大戦、原爆と盛り沢山。究極的には「火」に収斂するのだろうが、これらを融合させようという発想はすごい。技法が多岐に渡った分、やや散漫になった感も禁じ得ないけど。
そして、こちらもやはりテーマにコンテクストが詰まっているので、特に今を生きる日本人には様々な物語性と妄想を沸き立たせると思う。先の北島氏との違いで語ると、作者側の語っていることが多いので、妄想できる幅はやや狭くなってはいるのだけど。
このお二方だけを比べても、表現手法はもちろん、作者側の(表現によって)語っている密度と、受け手側の語れる幅に違いがあって、それだけでも面白い。
最終的にはすべて「解釈の問題でしょ」と言われてしまうかもしれないが、解釈できる楽しさを、受け手として味わいたいのだ。